東京都池袋駅から片道30分、アクセス良好の観光地・埼玉県川越市。
蔵造りの街並みや時の鐘で知られる小江戸川越。
その町並みの基盤は、「十ヶ町四門前(じっかちょうしもんぜん)」という町割によってつくられたと言われています。
「鍛冶町」「多賀町」「江戸町」…。
今の地図には載っていない江戸時代の町名ですが、川越の中心市街地を歩くと石碑や標柱、道路の曲がり方として、その痕跡をいくつも見つけることができます。

この記事では、川越城下町の基本構造である「十ヶ町四門前」と、上五ヶ町・下五ヶ町・四つの門前町の役割、各町の地名の由来と現在の住所を、川越市の資料や文化庁の伝建地区資料をもとに紹介します。
- 川越城下町の基盤は1639年松平信綱が定めた「十ヶ町四門前(じっかちょうしもんぜん)」という町割
- 商人町「上五ヶ町」と職人町「下五ヶ町」、四つの寺の門前町で構成
- 昭和の町名地番整理で旧町名の多くが消滅し、今は「仲町」「幸町」「元町」などに統合
「十ヶ町四門前」とは何か
川越城下町の基盤をつくった松平信綱

1590年(天正18年)、川越藩は徳川家康の関東入府にともない立藩。
城下町としての姿が現在につながる形に整えられたのは、江戸時代前期のことです。
1638年(寛永15年)、川越の城下町は大火に見舞われ、城郭の大部分と城下の3分の1を焼失(寛永の川越大火)。
1639年(寛永16年)、島原の乱の鎮圧の功績で老中・松平信綱が川越藩主となりました。
「知恵伊豆(ちえいず)」の異名を持つ松平信綱。
城の再建とあわせて城下町の復興にあたり、城下を「十ヶ町四門前」の町割に区分し、計画的に城下町のまちづくりを進めました。
十ヶ町四門前の構成
「十ヶ町四門前」は、次の3つの区分からなります。
- 上五ヶ町(かみごかちょう):商人町
- 下五ヶ町(しもごかちょう):職人町
- 四門前(しもんぜん):4つの寺院の門前町
このほか、城下に隣接する集落(松郷・脇田・野田・小久保・東明寺など)が「郷分(ごうぶん)」として組み込まれ、「十ヶ町四門前郷分」と総称されることもあります。
文化庁の伝建地区資料でも「川越の城下町が整備されたのは、寛永15年(1638)の大火以後のこと」「城下を商人町の上五ヶ町、職人町の下五ヶ町、お寺を核とした四つの門前町、そして周辺の郷分に区分して計画的な町づくりが進められた」と記されています。
札の辻を中心とした町割

町割の中心となったのは、現在の札の辻交差点付近にある「札の辻(ふだのつじ)」。
法度(はっと)や掟書きを書いた高札を掲げる「高札場(こうさつば)」が置かれていた場所で、川越城下でほぼ唯一の四つ角だったといわれています。
『新編武蔵風土記稿』所収の『河越城下町図』などによれば、城下町には袋小路や鉤の手(かぎのて)、七曲り、丁字路といった、敵の侵入を防ぐための城下町特有の街路が随所に組み込まれていました。
商人町「上五ヶ町」の5つの町
上五ヶ町は、札の辻を中心とした商業地区です。
月の9日間に開かれる「九斎市(くさいいち)」の市場が立ち、川越商人の中心地として栄えました。
本町(ほんまち)

川越城の西大手門から西へ伸びる本通り沿いの町。

旧本町 現 元町一丁目
本町は川越城の西大手の本通りである。古くは本宿といった所で、江戸時代から本町と呼んだ。ここは明治の頃に米穀商品取引所があった跡なので米商とも呼ばれていた。本町の四ツ辻は昔、高札場があった所なので札の辻と言って、道路元標の基点とされていた。この本町を中心に昔は市店が立って繁昌した。
明治期には米穀商品取引所が置かれ「米商(こめしょう)」とも呼ばれました。
現在の川越市役所の南側駐車場に「本町」の石碑があります。
現在の住所:大手町・元町一丁目周辺
江戸町(えどまち)


旧江戸町 現 大手町他
川越城西大手門より、鉤の手までを指す。旧十ヶ町のうち上五ヶ町の一。城より、江戸へ行くための起点となる町であるため江戸街道と呼ばれていたが、町の繁栄と共に江戸町といわれるようになった。「れんしやく丁」「唐人小路」などの北条氏時代の古名も伝わり中世以来の繁栄が窺われる。ここは、道路が二回直角に曲がる城下町特有の鉤の手跡である。昭和三十六年町名変更。
川越城の表玄関である西大手門の前にあり、伝馬問屋(てんまどんや)が置かれていた町。
江戸まで続く川越街道の起点となっていたことから「江戸街道」と呼ばれ、町の繁栄とともに「江戸町」となったといわれています。


道路が二度直角に曲がる、城下町特有の「鉤の手」の跡が今も残っています。
現在の住所:大手町周辺
南町(みなみまち)

札の辻の南側。
大店の呉服問屋が連なる商業の中心地で、現在の「小江戸川越一番街商店街」。
いわゆる蔵造りの街並みの中心エリアです。
1893年(明治26年)の川越大火後、焼け残った大沢家住宅(国指定重要文化財)に倣って蔵造りの商家が建てられ、現在の景観が形成されました。
現在の住所:仲町・幸町一帯
喜多町(きたまち)

札の辻の北側。
もとは「北町」と書きました。
河越夜戦の舞台となった東明寺の門前町としても発展した町です。
※東明寺自体は志多町にあります。
南町とともにかつての城下町の中心であり、明治の川越大火を免れたため江戸時代に建てられた町家が残っています。
現在の住所:喜多町
高沢町・高澤町(たかざわまち)


旧高澤町 現 元町二丁目
札の辻の西で、赤間川を境としている。古くは、竹沢九郎という人が開いた町といわれる。江戸時代には、そうめんを扱う店が軒をならべていた。文化十五年(一八一八)に書かれた絵図には、石置屋根・板屋根の二階造りの町並みが見られる。この大通りに接して菓子屋横丁が大正時代から盛んとなり、現在も一年を通じてにぎわいを見せている。
札の辻から西、新河岸川にかかる高沢橋までの区域。
江戸時代は特産品の素麺(そうめん)を作る店が軒を連ね、菓子製造の家も多く、現在の「菓子屋横丁」へとつながっていきます。
現在の住所:元町二丁目・幸町・元町一丁目の一部
職人町「下五ヶ町」の5つの町
下五ヶ町は、上五ヶ町に隣接する職人街です。
上五ヶ町と下五ヶ町は、川越まつりなどの祭礼や道普請(道路の整備)で交替で町行司を出していました。
多賀町(たがまち)


旧多賀町 現 幸町他
多賀町は昔桶屋が開いたので箍町と呼んでいたが、音を通じて多賀町と改めた。桶師取立の町として城主に桶大工の投銭を毎年出して諸役は免除の所であったと言われる。時の鐘は寛永の頃酒井忠勝が城主の時に造られ現在の鐘楼は明治二十六年の川越大火の後元の姿のままに再建されたものである。この鐘の傍に薬師と稲荷社があり薬師は昔本町から移したものである。
時の鐘がある現在の鐘つき通り周辺。
桶屋・大工など職人が集まった町で、桶の「箍(たが)」から「多賀町」と呼ばれるようになったといわれています。

時の鐘は江戸時代初期、藩主・酒井忠勝が当時の多賀町にあった常蓮寺の境内に建てたのが始まりとされています。
現在の鐘楼は4代目。1893年(明治26年)の川越大火後に再建されました。
現在の住所:幸町
鍛冶町(かじまち)


旧鍛冶町 現 幸町
鍛冶町は古くから川越城の刀匠などがいたところで「三芳野名勝図絵」によれば「小田原属城時代天文・弘治の頃鍛冶平井某・相州より来りてここに住す」と記され、この頃に鍛冶・刀匠などが集ったのでついに町名となったと言われる。天正年間になると平井の弟子十余人がこの町に住んでいた。従って鍛冶の祭神である金山神社があり、毎年二月十五日にはふいご祭りのため川越町近郷の鍛冶工が集って祭りをしたと言う。この様な関係から川越祭りの山車の人形は三条小鍛冶宗近が選ばれている。
鍛冶や刀匠が集まった町。
北条氏時代に相模国(現・神奈川県)から鍛冶職を移住させたことが町名の由来とされています。
金山神社では祭事も行われたと言われています。

川越まつりの山車の人形に「三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)」が選ばれているのも、この町名にちなむとのこと。
現在の住所:仲町
志義町(しぎまち/旧・鴫町)


旧志義町 現 仲町
志義町は昔鴫善吉という刀鍛冶が開いたので鴫町といった。この町から北の方にかけて昔は馬場があって城中の士が調馬した所と伝えている。その後明治年間には志義学校が開かれ、さらに穀問屋が軒を並べていて川越穀市の旺盛だった頃には志義町の穀市の初荷は関東でも有名なものであった。
鍛冶町の刀匠・鴫善吉(しぎぜんきち)が開いたことから「鴫町(しぎまち)」と呼ばれました。
そして、後に「志義町」と表記されるようになったといわれています。
穀物問屋が軒を連ね、川越穀市(こくし)が開かれていました。
明治期には志義学校が開校し、川越藩の馬場があったとも伝えられています。


石碑は蔵造りの街並みの南側、龜屋のすぐ隣に位置します。
現在の住所:仲町
上松江町(かみまつえちょう)


旧上松江町 現 松江町二丁目
旧江戸町の南に接する。町名は、唐の国、松江に対比することに由来している。商人町として発展し、現在は、志義町通りから見ると、川越キリスト教会のモダンな洋風建造物がアイ・ストップとなっている。蔵造りや、古い形式の木造町屋が数多く残っており、川越街道に沿って古い町並みを形成する地域である。
松郷(まつごう)と続く区域で、商人町としても発展した町。
現在でも古い形式の木造町家が残る周辺地域です。



佐久間旅館は1894年(明治27年)の創業。
文豪・島崎藤村が執筆のため度々滞在したと伝えられ、旅館跡の角に町の石碑があります。

ちなみに佐久間旅館は2018年に廃業、2024年にほとんどが解体され、2025年からはコインパーキングとなっています。
今は歴史ある佐久間旅館の塀が残されています。
現在の住所:松江町2丁目
志多町(したまち)

東明寺の広大な境内が町地化したところで、東明寺坂を下った場所にあることから古くは「下町(したまち)」と呼ばれていたといわれています。
川越まつりでは「弁慶」の山車を出すことで知られる町です。
現在の住所:志多町
寺の門前町「四門前」
四門前は、城下を代表する4つの寺院の門前町です。
町火消しの担当区域でもありました。
蓮馨寺(れんけいじ)門前

1549年(天文18年)、河越城将・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)が母・蓮馨尼(れんけいに)の懇請によって創建した浄土宗の寺院。
1602年(慶長7年)には「関東十八檀林(だんりん)」の一つに公認。
葵の紋を許された幕府公認の僧侶養成機関として多くの学僧を育てました。
蓮馨寺の門前町は、戦前は川越で一番賑わった通りといわれています。
現在の「クレアモール」へと続く商業の系譜を生み出した場所。
現在の住所:連雀町
【🏠 住所】
〒350-0066 埼玉県川越市連雀町7-1
【🚃 アクセス】
– 西武新宿線本川越駅から徒歩10分程度
– JR/東武東上線川越駅から徒歩20分程度
– 東武バス 蓮馨寺で下車

養寿院(ようじゅいん)門前

一番街の西側に位置する寺院です。
明治26年の川越大火は、この養寿院の門前から出火したことで知られています。
現在の住所:元町二丁目

行伝寺(ぎょうでんじ)門前

一番街の西側に位置する日蓮宗の寺院の門前町。
現在の住所:末広町2丁目周辺
妙養寺(みょうようじ)門前
養寿院・行伝寺と並ぶ一番街西側の門前町を形成していました。
現在の住所:末広町1丁目周辺
旧十ヶ町四門前の現在
現在は、川越城下17町と呼ばれた旧町名の多くは消滅。
「仲町」「幸町」「元町」「大手町」「喜多町」「志多町」「松江町」「連雀町」などの町名に統合・変更されました。
新町名のうち、「喜多町」「志多町」「松江町」のように旧町名を引き継いだものもあれば、「幸町」「末広町」のように新しく付された佳名(かめい)もあります。
なお、川越市内では旧町名の復活運動は行われていません。
一方で、現地には旧町名を伝える石碑や標柱が設置されており、町歩きの目印として活用できます。
旧十ヶ町四門前周辺のスポット・名残
川越中心部を歩くと、「十ヶ町四門前」の名残を体感できる場所がいくつかあります。
札の辻と「四つ角」

蔵造りの街並みの北端、川越城西大手門前からの通りと交差する地点が「札の辻」。
当時の城下町には、敵の侵入を防ぐため袋小路や鉤の手・丁字路が多く設けられていました。
そのため、川越でほぼ唯一の四つ角だったといわれています。
鉤の手(かぎのて)
道路が複雑に曲がる「鉤の手」は、敵が城下に攻め込みにくいよう造られた城下町特有の街路。
江戸町(現・大手町)、本丸御殿近くの郭町にも鉤の手の跡が残っています。
1694年の城下絵図にも描かれている、城下町の防衛構造の一部です。
蔵造りの街並み(重要伝統的建造物群保存地区)
1999年(平成11年)、札の辻から仲町交差点までの一番街通りを中心とした地域が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。
文化庁の選定理由には「町割は寛永年間(1624〜1643)の形態をほぼ継承し、保存地区は近世初期以来の町人地の枢要部にあたる」と記されています。
つまり今歩いている一番街の町割そのものが、松平信綱の十ヶ町四門前の名残ということになります。
【🏠 住所】
〒350-0063 埼玉県川越市幸町
【🚃 アクセス】
– 西武新宿線 本川越駅から徒歩15分程
– JR/東武東上線 川越駅から徒歩25分程
– 東武バス 一番街まで












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